オタク、東大、キリスト

僕はいかに自分の世界観を深化していくかしか考えてない。ある世界観はある世界観より深まっているとか洗練されているということはあっても、ある世界観はある世界観に勝っている、ということは論理的にあり得ないから。

 

庵野監督や岡田斗司夫さんはいわば「オタクならウルトラマンから海外の難解SF小説まで片っ端からチェックしてるのは当たり前だろ」世代。だから逆に彼らはマウンティング精神が無いんだよ。だって、そんなの当たり前すぎて何も疑うことはなかったわけだから。

 


オタクにマウント精神が出てきたのは最近の事象だよ。つまりこれ知ってる俺カケーというものでさ、それは庵野世代にあったSF文化圏が死んだから。つまり当時は膨大な知識が「会員証」だった。それを持ってようやくみんなの会話に入れる。にわかは黙って聞いて勉強してろっていうさ笑

 


ある年代のウルトラマンファンはウルトラマンも観てるし、ガンダムも観てるし、キューブリックとかも観てる。

 


僕も師匠の言ってることを理解するには、相当観なきゃならなかった。てか今でもかなり意味分かんないんだけどさ。

 


すべてを知らないことが恥ずかしい時代から、ちょっと知ってることがスゴイという時代になった。

 


でも今はそういう全部チェックしなきゃなんないというのも時代遅れだと思う。それはヤマトとかがテレビ放送してた時代の話。今誰も真剣にアニメ追ってないよ。僕もある時期まで頑張ってチェックしてたけどさ、京都アニメーションの某監督に「正直もう最近のアニメ観る必要は一切ありません」と言われて、それからたしかにと思ってアニメ追うのやめたもん。

 


だから知識こそ絶対と言える時代はとっくに終わったんだよ。それ自体はべつに構わない。ただ、それが死んだ代わりに、他のものが出てきたのか? 何も出てきてないよ。「他人と比べて自分はどうか」以外の回路が全部死んだんだよ。つまりオタクは自由になった代わりに、どこにも根拠を持てなくなった。

 


けどその代わりに何が出てくるのかと言ったら何も無いと思う。あとはゆるやかにオタクカルチャーも、ファストファッションとかと同列になって死んでいくだけ。

 


でも僕からすれば文化が死ぬことが必ずしも悪いことだと思わない。文化は人間が迷ってるから出てくると思うから。

 


だからかつて特撮界隈に行けば、スゲー怖い特撮オジサンがいたわけじゃん。「お前、マットアロー1号も知らんのか!」みたいに。その怖いオジサンの存在はたぶん重要だった。たしかに怖いけど、同時に何が目指すべきオタク像かを担保してくれるわけだから。まあこれは典型的なポストモダン論だけどさ、どの界隈でも起きてることだと思うよ。「みんなちがってみんないい」というリベラルの過剰が、実は後期近代最大の悩みのタネなんじゃないかっていう。

 


「みんなちがってみんないい」って人間にとってキツイはずなんだよ。だって何が正しいのかぜんぶ自分で判断しなきゃならないから。その過程で他人も自分も傷つけるだろうっていう。人々の潜在無意識にある、その後期近代的な葛藤をバケツですくい上げたのが新世紀エヴァンゲリオンだよ。だからあそこまでヒットしたわけでさ。でもすくい上げられたは良いけど、その先が無かったって言うオチもついてくるんだけど。

 


僕の言葉で言うとポストモダンってつまり、それまで絶対的な権威だった人たちが、ネットのオモチャになり、ただのオッサンオバサンでしかなくなる時代のことだよ。東大生も、ビジネスの成功者も、官僚も、出る杭はみんなネットのオモチャ。特定の信者以外、誰も本気ですごいなんて思わない時代。その代わりに人類は多様性を獲得するんだっていう。その代償はデカイよ。

 


本当は「東大生はスゴイ」という権威くらいは保っておかなきゃマズかったんだよ。もう今じゃ東大生なんて「勉強バカ」「クイズ王(笑)」くらいになって、一部の学歴コンプが嫉妬するだけの社会的装置になっちゃってるけどさ。小室直樹的に言えば、エリートは国民みんなが絶対と拝めてないと機能しない。エリートは大衆を差別し見下すことでようやく、「オレ様が大衆を守ってやろう」っていうノブレスオブリージュの動機が生まれるんだっていう。僕みたいな庶民は、非人間扱いされないと。

 


東大生が学歴コンプの対象になってる時点で、東大という権威はもう絶望的に死んでるんだよ。だってそれってその辺のパンピーに「もっと頑張ればオレも入れたのに」って認識されてるってことでしょ。帝大時代のように、最初から雲の上の存在で、凡人には絶対手が届かないもの、「もはや人間じゃない奴らの集まり」ってことになってなきゃ、権威は権威たり得ないから。

 


ユダヤ選民思想と同じ。俺たちは神から選ばれた超人だから、凡人ども=国民のために頑張るのは当たり前だっていうさ。でも、学歴コンプの対象になってるようじゃ無理でしょ。頑張らないやつが悪いってスケールになっちゃう。そしたら東大生も、国民のために頑張ろうなんて思わないよ。今の政治家見れば分かるけどさ。

 


まあ塾業界が悪い。スゲー田舎の塾まで、頑張れば君も東大入れますみたいに宣伝するから。「東大なんて劣等庶民のお前らに入れるわけないだろ」って「幻想」を少なくとも国民全体で共有しないと、つまり東大生をみんなで祭の神輿みたいにヨイショしとかないと、近代社会って絶対無理だよ(笑)まあ、日本はそれができなかったんだけどさ。

 


中世は、貴族は庶民と結婚できないってあったじゃん。あれってしょうがないんだよ。貴族は雲の上の存在だからこそ初めて、庶民のために頑張るんであって、もし、その辺の小ギャルみたいなのがちょい婚活頑張ったら貴族と結婚できるようになったらさ(笑)、貴族の権威を支える根幹がガラガラと崩れていくわけ。

 


今はその辺の娘っ子もちょい頑張れば、東大生みたいなエリートと結婚できるわけだけど、それは近代社会の運営上では色々問題があるっていうさ。近代ってそもそもキリスト教から始まり「雲の上の絶対神」を不可欠なものとして前提してるから。神的な存在に憧れることは許されても、同列に並ぼうとすることは許されないっていうさ。

 


キリスト教はじまりの恋愛ってものの本質も同じ。恋人に憧れることは許されても、同列に並ぼうとした途端、嫉妬の呪いにかけられ、死神にささやかれるぞっていう。キリスト教ってとことん神と人間のあいだにデカイ谷をつくるっていうか、「同列」ってものを認めないんだよ。その差別図式を飲み込んで消化しない限り、恋とか、成功だとか、そういう近代的な価値観の中では苦しむしかないっていうさ。

 


僕からすれば、脱近代の方法ってプライドを捨てることなんだよ。

 


キリスト教なんて自分関係ねえと思ってても、自由恋愛とか、自己実現とか、成功って、もともと日本にあった考えじゃなくて、ヨーロッパ近代の考え方だから。既にキリスト教的世界観の範疇だよ(笑)残念だけどさ。僕は仏教思想とかニーチェを経由してそこから割と抜け出したんだけど(笑)

 


最近になってようやく思想ってものの正体がちょっと分かった気がするんだよ。思想書読んでなかったら、僕はいろんなものにがんじがらめになってた。こんなに自由に強く生きられなかった。思想って目を開いて不自由から逃げるためにあるんだよ。