「マトリックス」的状況を前提にしない努力は肩透かしを食う

人はそれぞれ「スゴイ」と感じているものが違う。生まれや、育ち、見てきたものによって、強いばらつきが出る。自分がどんなに「スゴイ」と思ってるものでも、隣の人が「スゴイ」と思ってるとは限らない。まずそれに気づくことが、あらゆることの出発点として大前提だと思う。

 


同じ女の子でも、自分の顔の細かい部分、たとえば唇の形まで神経質になる子もいれば、一切気にかけない子もいる。そういう、当たり前だがよく考えたら不思議なことに気づくことが、実は世界認識に関して重要なキーになる。のだが、ほとんどの人は、そこに目が向かない。だから不自由になる。

 


男子校ノリ的なものは「みんながみんな、同じものが面白いと思っているのだろう」という前提が無意識下になければ、成立しない。男子がスゴイと思ってやっている一発芸が、女子から見ると、ひじょうに薄ら寒く見えてしまう悲劇は、そのためである。

 


自慢は、その人間の「程度」が最もバレるもの。場合によれば「お前、そんなことを『スゴイ』と思ってるの?笑」と思われる。それでも人は自慢をする。アレ、バカなんじゃ無いかと思う。(みてみてー!的な、かわいい自慢は別)

 


全体性(世の中のあらゆるつくられた幻想から覚めた段階)に到達している人間は、自慢しない。いや、自慢するという動機が生まれようがない。だって、すべては「趣味」に見えているわけだから。あいつは頑張ってるけど、まあ、好きでやってるんだろう、以上の感想が発生しない。

 


自分が「これしかない」とか「絶対正義」だと思ってやっている事が、他人の話を聞いたり読んだりしていくうちに、どんどん「もしや違うんじゃないか?」と、ズラされていく感覚。これがあるうちは、たぶん次に進める。自由への切符を手にできるチャンスがある。

 


たくさん見たり読んだりしたら、洗脳されて不自由になるはずなのに、教養人はみんな自由人だ。なぜそういったことが起こるのか?人はよく誰かの思想に染められているという意味での「洗脳状態」と、生まれたままの純粋無垢な「非洗脳状態」があるという風に思いたがるけど、実際には洗脳状態しかないじゃないか、と思ったのが僕の出発地点だった。

 


そこでヒントになったのは哲学者はみんな哲学者の研究者であるということだった。プラトンだったらこう考えるはずだ、と思いながら生活していく過程で、どんどんプラトンの考えが自分の考えになっていく。このような過程は、日本だと悪いことだと思われる傾向があるが、プラトンを選択したという「自由」以外、論理は徹底的にコピーすることで自由に向かうものだということが、実際、東大出身の先生方の話を聞くと、それで大正解だったのだと分かりました。

 


僕も昔は「俺こんなに本読んで大丈夫なのか」「自分の考えが無くなりはしないか」「考えが偏ったりしないか」と思っていたが、「いや、偉大な先生たちなんて、もっと比べ物にならないほど読んでる。その上で自論を組み立ててるんだ。じゃあ大丈夫だろう」ということで、振り切って読書や映画鑑賞をしてきた。今、それで間違ってなかったんだというのがようやく分かった。

 


読んでいけば読んでいくほど、けっきょく学問は自己満足であることが判明してくる。すごく難しい言葉で書いているものも、広義の趣味の範疇であえて難しく書いているだけ。世の中のために書いてるなんてウソ。世の中のためというお気持ちさえも広義の趣味に過ぎない。今、人並みの学者でそれを自覚していない人はいないと思う。

 


世界は掘ろうと思えば無限に深くまで掘れるし、逆に、何も掘らないこともできる。掘らずに済む人間は掘らなくて良い。それじゃあつまらないなら、スゴイ掘り方をやってる人間を師匠にして、やってくしかない。

 


僕だってもしかしたらマトリックスの生命維持装置の中で電極まみれで夢を見ている可能性だってある。人間は、他人や世界が、そこに実在するとなにをどうやっても確信する方法が無いから、孤独から逃げられない存在でさ。どんなにセックスしたって何かが埋まらない。その何かの正体はきっとそれだっていうさ。

 


僕も中学の頃までは、確実に勝ち組になりたいと思っていた。その内実もよくよく分析して考えると、単にコンプレックスや、不安が原因だった。ふと湧いてくる頑張りたいというモチベーションもすべて、違う親、違う環境で育っていたら「べつにこうはならなかっただろう」というものだった。そこで僕は一回、全体性(世の中は本当はどうなっていて、僕はいったい、なにを頑張れば良いのか)を探求したいと思うようになった。

 


デュルケームの(目標の)アノミー論は、たとえば金持ちになりたい貧乏人がいたとして、努力している時は「勝ち組志向」になってアドレナリンがドバドバでも、いざ金持ちになったら、目標を失ってひどい場合、自殺衝動に駆られるというもの。周りを見ても確かにそうなっている。そこで僕は、親兄弟友人から植え付けられたコンプレックスをベースにした「こうなりたい」という願望は、すべて無意味だと思った。そこで進路を切り替えたんですね。

 


加えて、自分がコンプレックスや不安をベースに、たとえば誰かや何かに強烈に恋焦がれたりすることは、他人に迷惑をかける確率が高いこともかなり分かった。たとえば新宿の路上で泣き喚いている地雷系メンヘラのようなタイプを観察したり、目標のために他人や家族まで陥れようとする「成り上がりたい意識高い系」を観察すると、それは一目瞭然だった。あんな風にならないために、僕は何をするべきなのかと。

 


だから僕は、金持ちになりたいとか、そのような素朴過ぎて、容易に解決可能な目標設定じゃなく、それ自体最終目標でありながら、絶対に解決し得ない強度の目標を、つまりゴーギャン的問題設定「我々はどこからきて、どこへ行くか」を探求するべく、大学時代は哲学や創作の世界へ歩み寄った。この流れが、僕の活動の根本動機にあることは否定できないと思う。でも全然間違ったルートじゃ無いと思っとる。

 

 

 

日本はユダヤキリスト教文明圏じゃないので、西洋合理主義的な考え方をよっぽど勉強しない限り、ほとんどの人は親兄弟や友人恋人から植え付けられるコンプレックスを解消しようとする形で何かを頑張ろうとし、承認欲求に依存しながら若いうちの膨大な時間を浪費するしかない。僕が聖書や数学を志向してきのはそういうベタに日本人的な時間の浪費を避けて、もっと前向きかつ、生産的に過ごしたかったからというのがある。

 


マトリックスの例を出すと、そんなファンタジーじみたことになってる確率は低いだろ、云々、と言う反論がたまにくる。ただ、数学では、一点の例外(ツッコミ)の入れる隙のない命題を全称命題と言うのであって、だから反証可能性が0.1ミリでもある限り、確定できない。そのはがゆさが実在に関するデカイ問題なんだっていうさ。

 


構造主義ポスト構造主義、現代哲学がまどろっこしいのはすべてそれが原因。たとえばフロイトを継承した精神分析家・ジャック・ラカンの「シューマL理論」も、「他者」を2段階に分けざるを得なかったわけだけど、それはつまりマトリックスみたいなことになってる可能性を計算に入れて、「他者」を想定しなきゃならなかったから。絶対他人や世界は実在するんだ!って分かってたら、わざわざ場合分けして2段階にする必要は無い。

 


なんでそんなまどろっこしい手続きが必要になったのか?これは、都市化、インターネット化が関係してる。たとえば、古い伝統の残る田舎の人々は、みんなにも私と同じように世界が見えているはずだ。という素朴な感性の下、「昨日のテレビみたー?」みたいな話が成立する。けれど都市部では、みんなそれぞれ違う現実を生きているというのに気づいてしまう。そこである種の緩衝剤としての強固な理論が必要になってきたっていうさ。