寺田絢哉 2023年の総括①

 

 今日は西暦2023年11月13日。ここのところ2年連続で小説を書いていた僕だったが、今年は小説を1文字も書かなかった。というか、書けなかった。自分の中で、特に書きたいことが無くなってしまったからだ。

 僕は自分のことは、哲学的な人間だと思う。やさしい言い方をすれば、起きている時間の大部分を、言葉の世界で生きている人間。

 しかし明らかに、今年は言葉というものに関してあまり強くコミットできなかった。自分の内側から湧き上がってる言葉への衝動みたいなものが希薄で、ある種、思想的に疲弊していたと思う。今年の僕は、ぼんやりとしたニヒリズムに支配されていた。振り返ると、これが良くなかった。昔、ニーチェ哲学に触れて、ニヒリズムの無意味さを分かったような気がしていたはずなのに、人間、この有様である。

 気づけば寒くなってきて、もうすぐ今年も終わってしまう。それで「今年は何かしたような気もするが、何もしてないような気分で終わってしまいそうな感じ」があり、これじゃあちょっとまずいだろと謎の焦燥感に駆られて、誰が読むのかも定かでない、こんなエッセーを書き始めた。

 さて、恥ずかしい前置きをここら辺で終わりにして、本題に入ろうと思う。

 そんな怠惰な僕が今年唯一考えていたことは、〈他人の思想〉と〈自分の思想〉の関係性についてだ。

 人間は、生まれた時からこれまでそれぞれの固有の環境で育ち、〈自分の思想〉を獲得していくわけだが、その中で形成された、思想のコアのようなものからは逃れられないんじゃないかと、強く感じ始めた。

 もちろん、学習や他者と関わることを通じ、〈他人の思想〉の流入やそれとの化学反応によって、ある一定の割合で人間の思想は変わっていくのだろうが、実際には逃れない部分の方が大きいんじゃないか。僕が考えていたのは端的にそのようなことである。

 


 そして更に僕の疑問としてあったのは、現代における〈他人の思想〉というものの、不可能性である。(は?と思った人。べつにここから難しい話をするわけじゃないからさ…)

 たとえば60年代の政治の季節にはマルクス主義というのが巨大な〈他人の思想〉として流行っていた。大学生を中心にちょっとでも敏感な若者はみんなマルクスを読み、マルクス主義という〈他人の思想〉と、〈自分の思想〉との距離を縮めていった。その結果、機動隊相手に火炎瓶を投げつける過激な騒乱等が各地で起こったことは言うまでもない。(ここでは全共闘への評価は一旦、置いておくヨ)

 他に挙げられる戦後の代表的な〈他人の思想〉はオウム真理教だが、そもそも宗教とかイデオロギーというものは〈他人の思想〉の最たるものに他ならない。

 また、一概に〈自分の思想〉は気持ちが良く感じて〈他人の思想〉は、気持ちが悪く感じるもの、と区別できない。人間はある瞬間に、自分のマイナスな考え方が気持ち悪くなり、それを他人に相談することがある。

 人は〈自分の思想〉がこのままではダメだとか、行き詰まったとか感じた時、相談や読書などで出逢える〈他人の思想〉を通過して、〈自分の思想〉を改良しようと努力する。

 しかしそこで問題なのは、〈他人の思想〉に依存し過ぎると、今度は結局は〈自分の思想〉の範疇で生きるしかない自分のナチュラルな部分と葛藤を起こし始め、そこで苦しさを感じることがあることだ。

 人は〈他人の思想〉に過剰依存している時、「〜ねばならない」という信仰の呪縛に陥り、ある種の「思想の奴隷」になる。〈他人の思想〉から学習することは必要だが、この状態にまで突入しては芳しくない。

 自分の絶対ラインを守りつつ、他人の思想に近づかなければ、呑まれる。

 僕は本来、人間は自分自身を肯定して生きるのがナチュラルな状態だと思う。

 自分を肯定できなければ、どこかで間違っている。そう思って、前に進もう。

 

 まあ、このようなことが、現代では普遍的問題と化しているのではないかというところまで書きたかったが、それはまた後日。