寺田絢哉 2023年の総括①
今日は西暦2023年11月13日。ここのところ2年連続で小説を書いていた僕だったが、今年は小説を1文字も書かなかった。というか、書けなかった。自分の中で、特に書きたいことが無くなってしまったからだ。
僕は自分のことは、哲学的な人間だと思う。やさしい言い方をすれば、起きている時間の大部分を、言葉の世界で生きている人間。
しかし明らかに、今年は言葉というものに関してあまり強くコミットできなかった。自分の内側から湧き上がってる言葉への衝動みたいなものが希薄で、ある種、思想的に疲弊していたと思う。今年の僕は、ぼんやりとしたニヒリズムに支配されていた。振り返ると、これが良くなかった。昔、ニーチェ哲学に触れて、ニヒリズムの無意味さを分かったような気がしていたはずなのに、人間、この有様である。
気づけば寒くなってきて、もうすぐ今年も終わってしまう。それで「今年は何かしたような気もするが、何もしてないような気分で終わってしまいそうな感じ」があり、これじゃあちょっとまずいだろと謎の焦燥感に駆られて、誰が読むのかも定かでない、こんなエッセーを書き始めた。
さて、恥ずかしい前置きをここら辺で終わりにして、本題に入ろうと思う。
そんな怠惰な僕が今年唯一考えていたことは、〈他人の思想〉と〈自分の思想〉の関係性についてだ。
人間は、生まれた時からこれまでそれぞれの固有の環境で育ち、〈自分の思想〉を獲得していくわけだが、その中で形成された、思想のコアのようなものからは逃れられないんじゃないかと、強く感じ始めた。
もちろん、学習や他者と関わることを通じ、〈他人の思想〉の流入やそれとの化学反応によって、ある一定の割合で人間の思想は変わっていくのだろうが、実際には逃れない部分の方が大きいんじゃないか。僕が考えていたのは端的にそのようなことである。
そして更に僕の疑問としてあったのは、現代における〈他人の思想〉というものの、不可能性である。(は?と思った人。べつにここから難しい話をするわけじゃないからさ…)
たとえば60年代の政治の季節にはマルクス主義というのが巨大な〈他人の思想〉として流行っていた。大学生を中心にちょっとでも敏感な若者はみんなマルクスを読み、マルクス主義という〈他人の思想〉と、〈自分の思想〉との距離を縮めていった。その結果、機動隊相手に火炎瓶を投げつける過激な騒乱等が各地で起こったことは言うまでもない。(ここでは全共闘への評価は一旦、置いておくヨ)
他に挙げられる戦後の代表的な〈他人の思想〉はオウム真理教だが、そもそも宗教とかイデオロギーというものは〈他人の思想〉の最たるものに他ならない。
また、一概に〈自分の思想〉は気持ちが良く感じて〈他人の思想〉は、気持ちが悪く感じるもの、と区別できない。人間はある瞬間に、自分のマイナスな考え方が気持ち悪くなり、それを他人に相談することがある。
人は〈自分の思想〉がこのままではダメだとか、行き詰まったとか感じた時、相談や読書などで出逢える〈他人の思想〉を通過して、〈自分の思想〉を改良しようと努力する。
しかしそこで問題なのは、〈他人の思想〉に依存し過ぎると、今度は結局は〈自分の思想〉の範疇で生きるしかない自分のナチュラルな部分と葛藤を起こし始め、そこで苦しさを感じることがあることだ。
人は〈他人の思想〉に過剰依存している時、「〜ねばならない」という信仰の呪縛に陥り、ある種の「思想の奴隷」になる。〈他人の思想〉から学習することは必要だが、この状態にまで突入しては芳しくない。
自分の絶対ラインを守りつつ、他人の思想に近づかなければ、呑まれる。
僕は本来、人間は自分自身を肯定して生きるのがナチュラルな状態だと思う。
自分を肯定できなければ、どこかで間違っている。そう思って、前に進もう。
まあ、このようなことが、現代では普遍的問題と化しているのではないかというところまで書きたかったが、それはまた後日。
つげ義春、手塚治虫、石ノ森章太郎
つげ先生の漫画は、まず先にやりたい絵(強烈イメージ)があり、それを並べるためにテキトーな話をでっち上げて作ってる(※あくまで寺田の独自解釈です)実はそのような手法の漫画にかつて拍手が起こった状況すごく日本的で、たとえばハリウッド映画なんかを見ると分かるが、あっちの人たちはストーリーがないとスゴさを納得しない。
たとえば『ポケットモンスター』(縮めてポケモン)は、日本だとピカチューやルカリオあたりが人気なるところ、アメリカだと主人公のサトシが一番人気らしい。向こうはストーリーと、そこでスポットライトが当たるヒーローに反応しがち。その究極形が『スーパーマン』『アベンジャーズ』でしょう。その辺は宗教性のちがいだと思う。
日本だと石ノ森章太郎の仮面ライダーなんかは、アメリカのマーベルあたりのヒーローと比べるとスゲー暗いのね。バットマンやジョーカーとも違う暗さ。仮面ライダーはどこか、うらさびしい、演歌的なものを感じるよね。庵野秀明の『シン・仮面ライダー』を評価するとすればそこだよ。仮面ライダーを、アメリカンヒーローみたいにしなかったところ。まあ、仮面ライダーファンならそんなことしないの当たり前なんだけどさ。
僕はギレルモデルトロ大好きだけどさ、彼の『パシフィックリム』ってそんなに好きじゃ無い。菊池凛子のオカッパは好きだけど(笑)結局さ、向こうの人がつくったロボットヒーローものって、なんかマッチョ感が抜けないんだよ。明るいスポットライト当てすぎ。日本のロボットアニメを観てごらんよ。ガンダム、エヴァ、パトレイバー、どれもどこか「うらさびしい」んだよ。
(ちなみに、デルトロの『シェイプオブウォーター』は傑作だね)
石ノ森章太郎の功績は、「うらさびしさ」の導入だから。ハリウッド映画の影響を受けてた手塚治虫はたしかにスタイリッシュな漫画を量産したけど、石ノ森に比べると艶っぽさ、僕の言葉でいう「演歌的なもの」が足りない。石ノ森を研究すれば日本的なものの真髄が分かると言っていい。僕も大学生活の大半はその研究だったと言っても過言では無いからね。
演歌的なものというのは、端的に言えば、マイノリティーっていうか、弱い人間が世の中を生きていく上で感じるやるせない孤独感に対する応えだよ。わかる人にはわかると思う。基本的に僕のストーリーズを真面目に読んだりする人にはよく分かると思うよ(笑)
都心の向かい風になびくスーパーマンのマントじゃ無くて、海岸沿いの夕凪に淋しくなびく仮面ライダーの赤いマフラーのことを言ってるんだよ(笑)
他にも、例の『アイアンマン』よりも、名前もしれない郊外の黄昏に佇む『ウルトラマン』の方が日本的。やたらサイバーガジェット感が強いだけの『パシフィックリム』よりも、錆びれた工場のオイルや焼き魚の匂いがする『パトレイバー』や、包帯の少女や電線、工業都市の片鱗…的な、どこかアングラの匂いが漂い続ける『エヴァンゲリオン』の方が日本的。
僕を変えてくれた出会い
今だから告白できる。僕を決定的に変えたのは、シンガーソングライターの長嶋水徳ちゃんとの出会い。たとえばエリート志向の強い高校の軽音部にいると「上手いやつはスゴイ」という評価軸で計れないものに対して鈍感になりがちになる。僕もそうだった。だから長嶋水徳的な、ある種のアンダーグラウンド的なものを目撃した時に、「何がスゴイのか分からないけど、スゴイ」以上の言葉が出ない高校生の自分がいた。
そこで音楽の世界には、どんなに楽器を練習しても、到達できない「色気」があることに薄々気づいてくる。でもそれが明確に言葉にできず僕は頭を抱えつつ、あらゆる音楽や映画を見まくって答えを探す旅に出た。
それにそもそも、なぜ僕は宇多田ヒカルではなく椎名林檎が好きなのか?なぜベタなJPOPよりもアングラ音楽が好きなのか?といった類の疑問は、「上手いやつはスゴイ」という世界認識の範疇では分からないものだった。
で、結果的に分かったのは、芸術の世界にはニーチェ的に言えばアポロン的(明朗な太陽神)なものと、デュオニュソス的(どこか危険な匂いがする酩酊神)な系譜があるということ。「宮崎駿的なものに対する庵野秀明的なもの」「いきものがかり的なものに対する椎名林檎的なもの」と言うと分かりやすいかもしれない。僕は完全に後者の系譜だった。そして偶然この前、長嶋水徳のお父さんと喋ったら、第一声、「私は昔、後期ヴィトゲンシュタインを…」と始まって一瞬で意気投合。それで、「ああ、やっぱりか(笑)」と。
たとえばかつて秋元康はなぜ乃木坂に対して欅坂をわざわざ弁証法的にぶつけたのかをひとつ取っても…乃木坂の全体イメージは誰が見ても分かりやすくアポロン的なアイドルだけど、欅坂の、たとえば平手友梨奈を目撃した時に感じたある種の「ヤバさ」を、僕はデュオニュソス的なものと呼んでいる。僕がこれまでハマってきたアングラもの、例えば音楽なら人間椅子や八十八ケ所巡礼、漫画ならつげ義春、演劇なら寺山修司…このすべてがあとから振り返るとことごとくデュオニュソス的なものだった。
平成前期に椎名林檎や神聖かまってちゃんが提出した反・アポロン的な世界観を、後期になると大森靖子や、長嶋水徳がうっかり継承し、その長嶋水徳を僕がうっかり継承するという連鎖がある。これは社会学者の宮台真司が、感染(ミメーシス)と呼んでいるものそのもの。こういう継承線を次に繋げることが僕のモチベーションになってる。
たとえば日本の戦後映画批評界では蓮實重彦が小津安二郎的なものを逆張りで持ち上げたために、ブレードランナー的なものやアニメーション映画の系譜が過小評価されがちという事態になってしまった。そこで90年代になると、またある種逆張り的に後者(具体的には、岩井俊二など)を擁護するような立場が出てきた。で僕は90年代的なものをどう現代に接続するか。それが重要だと思ってる。
蓮實重彦の映画批評をラディカルに詰めると「アニメは映画じゃない」となる。背景が単調だし、人間の動きも不自然だから。そういうツッコミに敏感なクリエイターが、今度は背景をやり過ぎくらいに描いて、実写映画よりも情報量の多いアニメを作るというチャレンジ(具体的には、押井守の『攻殻機動隊』『イノセンス』がその極地)をする。そうなると、もはや、映画批評は特定のものさしで何かを測るよりも、「どのくらいヤバい匂いがするか」で傑作かどうかを判断するということ以外の妥当性が無くなってくるわけなんだよ。これがあらゆるジャンルで起きてると言って良い。
もっと言えば、今、逆張りで何かを擁護するという立場自体が無効になってると思う。何かをあえて持ち上げたり、あえて下げたりするという批評的態度そのものが、批評の対象になるから。伝統に対する反伝統とか、体制に対する反体制とか、ある種ヤンキー的な反抗は、それ自体がもう時代の変化とともに、賞味期限切れになってるんじゃないか。
日本でエンタメで勝負しようとする人間ほど、僕が言ったような視点に敏感にならざるを得ない。たとえばアイドル産業にしても、日本においては、韓国アイドルのような「完全性」を志向してもあまり意味がない場合がある。むしろZOCのような、過去に前科や問題行動がある「不完全性」を抱えたアイドルが時に志向され、一部の女の子たちの間でブームになるといった奇妙なことが起こるからだ。それと赤坂アカ、横槍メンゴの『推しの子』ブームは全く同じ構造がある。それぞれの業界の最前線に、そういうポイントに無自覚な人間はいないと思う。
おそらく演歌的なものが、日本人のエートス(傾向)にある。
美空ひばりに歌詞提供しつつ、おニャン子クラブをつくった秋元康なんて、僕が言ったことについて、日本一敏感だと思う。美空ひばりとおニャン子の良いところ取りの発明がAKBだったんだから。そしてAKBのアポロン的側面を強化して乃木坂が、デュオニュソス的側面を強化して欅坂が発生したっていうさ。バラバラなことをやってるように見えて、ぜんぶひと繋がり(笑)天才ってそういうことなんだよ。
AKBの時はAKB商法バッシングがあったりしたけど、文字通り右から左(笑)まで、結局たくさんの日本人が支持したんだから。(右翼の小林よしのりまで大島優子推しだったんだぜ?(笑))秋元康は、吉本隆明的に言えば「大衆の原像」を全部知った上で、そこにドストライクで投げ込んだだけ。僕からすれば、ジャニー喜多川の方がアメリカ的資本主義の権化であってさ。秋元康は極めて日本的文化人です。
「マトリックス」的状況を前提にしない努力は肩透かしを食う
人はそれぞれ「スゴイ」と感じているものが違う。生まれや、育ち、見てきたものによって、強いばらつきが出る。自分がどんなに「スゴイ」と思ってるものでも、隣の人が「スゴイ」と思ってるとは限らない。まずそれに気づくことが、あらゆることの出発点として大前提だと思う。
同じ女の子でも、自分の顔の細かい部分、たとえば唇の形まで神経質になる子もいれば、一切気にかけない子もいる。そういう、当たり前だがよく考えたら不思議なことに気づくことが、実は世界認識に関して重要なキーになる。のだが、ほとんどの人は、そこに目が向かない。だから不自由になる。
男子校ノリ的なものは「みんながみんな、同じものが面白いと思っているのだろう」という前提が無意識下になければ、成立しない。男子がスゴイと思ってやっている一発芸が、女子から見ると、ひじょうに薄ら寒く見えてしまう悲劇は、そのためである。
自慢は、その人間の「程度」が最もバレるもの。場合によれば「お前、そんなことを『スゴイ』と思ってるの?笑」と思われる。それでも人は自慢をする。アレ、バカなんじゃ無いかと思う。(みてみてー!的な、かわいい自慢は別)
全体性(世の中のあらゆるつくられた幻想から覚めた段階)に到達している人間は、自慢しない。いや、自慢するという動機が生まれようがない。だって、すべては「趣味」に見えているわけだから。あいつは頑張ってるけど、まあ、好きでやってるんだろう、以上の感想が発生しない。
自分が「これしかない」とか「絶対正義」だと思ってやっている事が、他人の話を聞いたり読んだりしていくうちに、どんどん「もしや違うんじゃないか?」と、ズラされていく感覚。これがあるうちは、たぶん次に進める。自由への切符を手にできるチャンスがある。
たくさん見たり読んだりしたら、洗脳されて不自由になるはずなのに、教養人はみんな自由人だ。なぜそういったことが起こるのか?人はよく誰かの思想に染められているという意味での「洗脳状態」と、生まれたままの純粋無垢な「非洗脳状態」があるという風に思いたがるけど、実際には洗脳状態しかないじゃないか、と思ったのが僕の出発地点だった。
そこでヒントになったのは哲学者はみんな哲学者の研究者であるということだった。プラトンだったらこう考えるはずだ、と思いながら生活していく過程で、どんどんプラトンの考えが自分の考えになっていく。このような過程は、日本だと悪いことだと思われる傾向があるが、プラトンを選択したという「自由」以外、論理は徹底的にコピーすることで自由に向かうものだということが、実際、東大出身の先生方の話を聞くと、それで大正解だったのだと分かりました。
僕も昔は「俺こんなに本読んで大丈夫なのか」「自分の考えが無くなりはしないか」「考えが偏ったりしないか」と思っていたが、「いや、偉大な先生たちなんて、もっと比べ物にならないほど読んでる。その上で自論を組み立ててるんだ。じゃあ大丈夫だろう」ということで、振り切って読書や映画鑑賞をしてきた。今、それで間違ってなかったんだというのがようやく分かった。
読んでいけば読んでいくほど、けっきょく学問は自己満足であることが判明してくる。すごく難しい言葉で書いているものも、広義の趣味の範疇であえて難しく書いているだけ。世の中のために書いてるなんてウソ。世の中のためというお気持ちさえも広義の趣味に過ぎない。今、人並みの学者でそれを自覚していない人はいないと思う。
世界は掘ろうと思えば無限に深くまで掘れるし、逆に、何も掘らないこともできる。掘らずに済む人間は掘らなくて良い。それじゃあつまらないなら、スゴイ掘り方をやってる人間を師匠にして、やってくしかない。
僕だってもしかしたらマトリックスの生命維持装置の中で電極まみれで夢を見ている可能性だってある。人間は、他人や世界が、そこに実在するとなにをどうやっても確信する方法が無いから、孤独から逃げられない存在でさ。どんなにセックスしたって何かが埋まらない。その何かの正体はきっとそれだっていうさ。
僕も中学の頃までは、確実に勝ち組になりたいと思っていた。その内実もよくよく分析して考えると、単にコンプレックスや、不安が原因だった。ふと湧いてくる頑張りたいというモチベーションもすべて、違う親、違う環境で育っていたら「べつにこうはならなかっただろう」というものだった。そこで僕は一回、全体性(世の中は本当はどうなっていて、僕はいったい、なにを頑張れば良いのか)を探求したいと思うようになった。
デュルケームの(目標の)アノミー論は、たとえば金持ちになりたい貧乏人がいたとして、努力している時は「勝ち組志向」になってアドレナリンがドバドバでも、いざ金持ちになったら、目標を失ってひどい場合、自殺衝動に駆られるというもの。周りを見ても確かにそうなっている。そこで僕は、親兄弟友人から植え付けられたコンプレックスをベースにした「こうなりたい」という願望は、すべて無意味だと思った。そこで進路を切り替えたんですね。
加えて、自分がコンプレックスや不安をベースに、たとえば誰かや何かに強烈に恋焦がれたりすることは、他人に迷惑をかける確率が高いこともかなり分かった。たとえば新宿の路上で泣き喚いている地雷系メンヘラのようなタイプを観察したり、目標のために他人や家族まで陥れようとする「成り上がりたい意識高い系」を観察すると、それは一目瞭然だった。あんな風にならないために、僕は何をするべきなのかと。
だから僕は、金持ちになりたいとか、そのような素朴過ぎて、容易に解決可能な目標設定じゃなく、それ自体最終目標でありながら、絶対に解決し得ない強度の目標を、つまりゴーギャン的問題設定「我々はどこからきて、どこへ行くか」を探求するべく、大学時代は哲学や創作の世界へ歩み寄った。この流れが、僕の活動の根本動機にあることは否定できないと思う。でも全然間違ったルートじゃ無いと思っとる。
日本はユダヤ・キリスト教文明圏じゃないので、西洋合理主義的な考え方をよっぽど勉強しない限り、ほとんどの人は親兄弟や友人恋人から植え付けられるコンプレックスを解消しようとする形で何かを頑張ろうとし、承認欲求に依存しながら若いうちの膨大な時間を浪費するしかない。僕が聖書や数学を志向してきのはそういうベタに日本人的な時間の浪費を避けて、もっと前向きかつ、生産的に過ごしたかったからというのがある。
マトリックスの例を出すと、そんなファンタジーじみたことになってる確率は低いだろ、云々、と言う反論がたまにくる。ただ、数学では、一点の例外(ツッコミ)の入れる隙のない命題を全称命題と言うのであって、だから反証可能性が0.1ミリでもある限り、確定できない。そのはがゆさが実在に関するデカイ問題なんだっていうさ。
構造主義やポスト構造主義、現代哲学がまどろっこしいのはすべてそれが原因。たとえばフロイトを継承した精神分析家・ジャック・ラカンの「シューマL理論」も、「他者」を2段階に分けざるを得なかったわけだけど、それはつまりマトリックスみたいなことになってる可能性を計算に入れて、「他者」を想定しなきゃならなかったから。絶対他人や世界は実在するんだ!って分かってたら、わざわざ場合分けして2段階にする必要は無い。
なんでそんなまどろっこしい手続きが必要になったのか?これは、都市化、インターネット化が関係してる。たとえば、古い伝統の残る田舎の人々は、みんなにも私と同じように世界が見えているはずだ。という素朴な感性の下、「昨日のテレビみたー?」みたいな話が成立する。けれど都市部では、みんなそれぞれ違う現実を生きているというのに気づいてしまう。そこである種の緩衝剤としての強固な理論が必要になってきたっていうさ。
オタク、東大、キリスト
僕はいかに自分の世界観を深化していくかしか考えてない。ある世界観はある世界観より深まっているとか洗練されているということはあっても、ある世界観はある世界観に勝っている、ということは論理的にあり得ないから。
庵野監督や岡田斗司夫さんはいわば「オタクならウルトラマンから海外の難解SF小説まで片っ端からチェックしてるのは当たり前だろ」世代。だから逆に彼らはマウンティング精神が無いんだよ。だって、そんなの当たり前すぎて何も疑うことはなかったわけだから。
オタクにマウント精神が出てきたのは最近の事象だよ。つまりこれ知ってる俺カケーというものでさ、それは庵野世代にあったSF文化圏が死んだから。つまり当時は膨大な知識が「会員証」だった。それを持ってようやくみんなの会話に入れる。にわかは黙って聞いて勉強してろっていうさ笑
ある年代のウルトラマンファンはウルトラマンも観てるし、ガンダムも観てるし、キューブリックとかも観てる。
僕も師匠の言ってることを理解するには、相当観なきゃならなかった。てか今でもかなり意味分かんないんだけどさ。
すべてを知らないことが恥ずかしい時代から、ちょっと知ってることがスゴイという時代になった。
でも今はそういう全部チェックしなきゃなんないというのも時代遅れだと思う。それはヤマトとかがテレビ放送してた時代の話。今誰も真剣にアニメ追ってないよ。僕もある時期まで頑張ってチェックしてたけどさ、京都アニメーションの某監督に「正直もう最近のアニメ観る必要は一切ありません」と言われて、それからたしかにと思ってアニメ追うのやめたもん。
だから知識こそ絶対と言える時代はとっくに終わったんだよ。それ自体はべつに構わない。ただ、それが死んだ代わりに、他のものが出てきたのか? 何も出てきてないよ。「他人と比べて自分はどうか」以外の回路が全部死んだんだよ。つまりオタクは自由になった代わりに、どこにも根拠を持てなくなった。
けどその代わりに何が出てくるのかと言ったら何も無いと思う。あとはゆるやかにオタクカルチャーも、ファストファッションとかと同列になって死んでいくだけ。
でも僕からすれば文化が死ぬことが必ずしも悪いことだと思わない。文化は人間が迷ってるから出てくると思うから。
だからかつて特撮界隈に行けば、スゲー怖い特撮オジサンがいたわけじゃん。「お前、マットアロー1号も知らんのか!」みたいに。その怖いオジサンの存在はたぶん重要だった。たしかに怖いけど、同時に何が目指すべきオタク像かを担保してくれるわけだから。まあこれは典型的なポストモダン論だけどさ、どの界隈でも起きてることだと思うよ。「みんなちがってみんないい」というリベラルの過剰が、実は後期近代最大の悩みのタネなんじゃないかっていう。
「みんなちがってみんないい」って人間にとってキツイはずなんだよ。だって何が正しいのかぜんぶ自分で判断しなきゃならないから。その過程で他人も自分も傷つけるだろうっていう。人々の潜在無意識にある、その後期近代的な葛藤をバケツですくい上げたのが新世紀エヴァンゲリオンだよ。だからあそこまでヒットしたわけでさ。でもすくい上げられたは良いけど、その先が無かったって言うオチもついてくるんだけど。
僕の言葉で言うとポストモダンってつまり、それまで絶対的な権威だった人たちが、ネットのオモチャになり、ただのオッサンオバサンでしかなくなる時代のことだよ。東大生も、ビジネスの成功者も、官僚も、出る杭はみんなネットのオモチャ。特定の信者以外、誰も本気ですごいなんて思わない時代。その代わりに人類は多様性を獲得するんだっていう。その代償はデカイよ。
本当は「東大生はスゴイ」という権威くらいは保っておかなきゃマズかったんだよ。もう今じゃ東大生なんて「勉強バカ」「クイズ王(笑)」くらいになって、一部の学歴コンプが嫉妬するだけの社会的装置になっちゃってるけどさ。小室直樹的に言えば、エリートは国民みんなが絶対と拝めてないと機能しない。エリートは大衆を差別し見下すことでようやく、「オレ様が大衆を守ってやろう」っていうノブレスオブリージュの動機が生まれるんだっていう。僕みたいな庶民は、非人間扱いされないと。
東大生が学歴コンプの対象になってる時点で、東大という権威はもう絶望的に死んでるんだよ。だってそれってその辺のパンピーに「もっと頑張ればオレも入れたのに」って認識されてるってことでしょ。帝大時代のように、最初から雲の上の存在で、凡人には絶対手が届かないもの、「もはや人間じゃない奴らの集まり」ってことになってなきゃ、権威は権威たり得ないから。
ユダヤ選民思想と同じ。俺たちは神から選ばれた超人だから、凡人ども=国民のために頑張るのは当たり前だっていうさ。でも、学歴コンプの対象になってるようじゃ無理でしょ。頑張らないやつが悪いってスケールになっちゃう。そしたら東大生も、国民のために頑張ろうなんて思わないよ。今の政治家見れば分かるけどさ。
まあ塾業界が悪い。スゲー田舎の塾まで、頑張れば君も東大入れますみたいに宣伝するから。「東大なんて劣等庶民のお前らに入れるわけないだろ」って「幻想」を少なくとも国民全体で共有しないと、つまり東大生をみんなで祭の神輿みたいにヨイショしとかないと、近代社会って絶対無理だよ(笑)まあ、日本はそれができなかったんだけどさ。
中世は、貴族は庶民と結婚できないってあったじゃん。あれってしょうがないんだよ。貴族は雲の上の存在だからこそ初めて、庶民のために頑張るんであって、もし、その辺の小ギャルみたいなのがちょい婚活頑張ったら貴族と結婚できるようになったらさ(笑)、貴族の権威を支える根幹がガラガラと崩れていくわけ。
今はその辺の娘っ子もちょい頑張れば、東大生みたいなエリートと結婚できるわけだけど、それは近代社会の運営上では色々問題があるっていうさ。近代ってそもそもキリスト教から始まり「雲の上の絶対神」を不可欠なものとして前提してるから。神的な存在に憧れることは許されても、同列に並ぼうとすることは許されないっていうさ。
キリスト教はじまりの恋愛ってものの本質も同じ。恋人に憧れることは許されても、同列に並ぼうとした途端、嫉妬の呪いにかけられ、死神にささやかれるぞっていう。キリスト教ってとことん神と人間のあいだにデカイ谷をつくるっていうか、「同列」ってものを認めないんだよ。その差別図式を飲み込んで消化しない限り、恋とか、成功だとか、そういう近代的な価値観の中では苦しむしかないっていうさ。
僕からすれば、脱近代の方法ってプライドを捨てることなんだよ。
キリスト教なんて自分関係ねえと思ってても、自由恋愛とか、自己実現とか、成功って、もともと日本にあった考えじゃなくて、ヨーロッパ近代の考え方だから。既にキリスト教的世界観の範疇だよ(笑)残念だけどさ。僕は仏教思想とかニーチェを経由してそこから割と抜け出したんだけど(笑)
最近になってようやく思想ってものの正体がちょっと分かった気がするんだよ。思想書読んでなかったら、僕はいろんなものにがんじがらめになってた。こんなに自由に強く生きられなかった。思想って目を開いて不自由から逃げるためにあるんだよ。
必ずしもすべて傑作とは言えないが、確実に影響を受けてしまった映画ベスト100(実写90+アニメ10)
実写
鈴木清順『殺しの烙印』
若松孝二『天使の恍惚』
ミケランジェロ・アントニオーニ『赤い砂漠』
ヴィム・ヴェンダース『パリ,テキサス』
ヴィム・ヴェンダース『東京画』
ヴィム・ヴェンダース『都市とモードのビデオノート』
押井守『赤い眼鏡』
押井守『アヴァロン』
押井守『トーキングヘッド』
押井守『東京無国籍少女』
押井守『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』
リドリー・スコット『エイリアン』
リドリー・スコット『エイリアン・コヴェナント』
スタンリー・キューブリック『シャイニング』
スタンリー・キューブリック『時計仕掛けのオレンジ』
ジェームズ・キャメロン『アバター2 ウェイ・オブ・ウォーター』
ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』
ジャン=リュック・ゴダール『男と女のいる舗道』
ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』
ジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』
ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー2049』
アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』
マイケル・ドハティ『ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ』
野口晴康『大巨獣ガッパ』
庵野秀明『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』
フランソワ・トリュフォー『映画に愛を込めて アメリカの夜』
寺山修司『書を捨てよ街に出よう』
ニコラス・ウィンディング・レフン『ドライヴ』
ウォシャウスキー姉妹『バウンド』
荒木経惟『女子高生偽日記』
北野武『あの夏 いちばん 静かな海』
黒澤明『乱』
ピーター・ファレリー『グリーン・ブック』
ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』
リドリー・スコット『悪の法則』
押井守『血ぃともだち』
北野武『その男,凶暴につき』
アニメ