SNSで“いいね”を求めて自分を演出する。
マッチングアプリで「条件のいい相手」を探す。
それらはもう、ホストやキャバ嬢がやっていることと本質的に変わらない。
現代社会では誰もが無意識に、ホストやキャバ嬢のムーブをやってしまっている。
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お金さえ払えば簡単に会うことができ、お金さえ払えばデートしてもらえたり、あわよくば性的なこともしてもらえる。
…といった具合に、ホスクラを始めとするナイトワーク全般は「こうすればこうなる」という世界だ。
しかし現実の恋愛は「こうすればこうなる」という世界にはなっていない。
いや、現実の恋愛だって会うたびに高い肉をおごったり服を買ってあげたりすれば、相手の気を引くことができると反論する人が出て来るかもしれない。
しかし仮にそのようにして相手をコントロールしようとする恋愛はなんら売春と変わりが無いんじゃないかとぼくは思う。
とは言っても、売春ではない恋愛をすることはとても難しく、ある意味では売春のほうが100倍楽だと言える。
語弊を恐れずに言えば、毎日デリヘルの仕事に明け暮れてホストに貢ぎ続ける女性も、たしかにその仕事自体は大変かもしれないが、逆に言えば、お金さえ稼げばたとえ擬似的にでも好きな人から承認を得られるというアンパイな状況に身を投じているとも言える。
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ラカン派精神分析に「対象a」(タイショウアー)という概念がある。
恋愛の中で例えるとするならば、とある女の子「Aちゃん」と「ぼく」が交際しているとしよう。
Aちゃんには「こういう男性と付き合いたい」という理想の男性像がある。
ぼくにも「こういう女性と付き合いたい」という理想の女性像がある。
そこでイメージされている究極の理想像がこの場合の対象aだ。
よく婚活を取り上げた番組で「あなたは理想が高すぎるから、いつまでも良い相手と出会えない」というセリフを結婚相談所の人が口にしているシーンを見たことはないだろうか。
ぼくはそのような場合に言われる「理想の高さ」こそが対象aを求める強さだと思っている。
さて、Aちゃんとぼくが交際できているのは、お互いそれぞれ理想はあるけど、現実問題としてある程度は「この人は自分と付き合うに値する」と認め合ったからだ。
ある意味では妥協したとも言える。Aちゃんもぼくも完璧な人間では無い。
というか完璧な人間などいない。
そもそも究極の理想=対象aは、あくまで妄想の産物であってこの世界には実在しないのだ。
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しかしホストの場合はどうだろう。
ホストはお客さんのことを付き合うに値すると思っていなくても、たくさんお金を持っていれば付き合う場合がある。
そこには通常の恋愛とちがってややズレがあると考えて良いだろう。
ここからは完全にぼくの仮説だが、ホストは成功した自分の姿を対象aに設定していて、そこに恋をしておりーーつまり〝究極の理想の自分像〟に恋をしておりーー究極の理想の女性像に恋をしているわけでは無いのだと思う。
だからホストにとって女性客は自分の理想ための手段でしかない。
ものすごい省略をすれば、ホストの脳内に女性なるものは存在しないのだ。
そこがホストが展開する疑似恋愛と、一般的に男性が行う恋愛との最大の違いだと思っている。
つまり整理すると、
・一般的な恋愛において男性が設定する対象a=究極の理想の女性像
・ホストの疑似恋愛においてホストが設定する対象a=究極の理想の自分像
である。
だから、実はホストは女性を見ていない。女性の向こうにカッコイイ自分を見ているのだ。どこまでも自己完結だ。
しかし、実際の恋愛は女性を見なければならない。
なぜなら実恋愛は自己完結ではなく、他者との価値観のすり合わせだからだ。
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ぼくたちはホストを「特殊な人」として消費するが、実際には誰もが“ホスト的”に生きているのかもしれない。
SNSで「いいね」を集め、理想の自分像を演じ続ける。
そう考えると、ホストとは単なる水商売ではなく、資本主義的自己愛の極限形なのだ。