自由へのブログ

日々考えていることを自由に書く場所。既にもはや日記ではないと思う。

誰もが無意識にホストやキャバ嬢のムーブをやってしまっている

SNSで“いいね”を求めて自分を演出する。

マッチングアプリで「条件のいい相手」を探す。

それらはもう、ホストやキャバ嬢がやっていることと本質的に変わらない。

現代社会では誰もが無意識に、ホストやキャバ嬢のムーブをやってしまっている。

お金さえ払えば簡単に会うことができ、お金さえ払えばデートしてもらえたり、あわよくば性的なこともしてもらえる。

…といった具合に、ホスクラを始めとするナイトワーク全般は「こうすればこうなる」という世界だ。

しかし現実の恋愛は「こうすればこうなる」という世界にはなっていない。

いや、現実の恋愛だって会うたびに高い肉をおごったり服を買ってあげたりすれば、相手の気を引くことができると反論する人が出て来るかもしれない。

しかし仮にそのようにして相手をコントロールしようとする恋愛はなんら売春と変わりが無いんじゃないかとぼくは思う。

とは言っても、売春ではない恋愛をすることはとても難しく、ある意味では売春のほうが100倍楽だと言える。

語弊を恐れずに言えば、毎日デリヘルの仕事に明け暮れてホストに貢ぎ続ける女性も、たしかにその仕事自体は大変かもしれないが、逆に言えば、お金さえ稼げばたとえ擬似的にでも好きな人から承認を得られるというアンパイな状況に身を投じているとも言える。

ラカン精神分析に「対象a」(タイショウアー)という概念がある。

恋愛の中で例えるとするならば、とある女の子「Aちゃん」と「ぼく」が交際しているとしよう。

Aちゃんには「こういう男性と付き合いたい」という理想の男性像がある。

ぼくにも「こういう女性と付き合いたい」という理想の女性像がある。

そこでイメージされている究極の理想像がこの場合の対象aだ。

よく婚活を取り上げた番組で「あなたは理想が高すぎるから、いつまでも良い相手と出会えない」というセリフを結婚相談所の人が口にしているシーンを見たことはないだろうか。

ぼくはそのような場合に言われる「理想の高さ」こそが対象aを求める強さだと思っている。

さて、Aちゃんとぼくが交際できているのは、お互いそれぞれ理想はあるけど、現実問題としてある程度は「この人は自分と付き合うに値する」と認め合ったからだ。

ある意味では妥協したとも言える。Aちゃんもぼくも完璧な人間では無い。

というか完璧な人間などいない。

そもそも究極の理想=対象aは、あくまで妄想の産物であってこの世界には実在しないのだ。

しかしホストの場合はどうだろう。

ホストはお客さんのことを付き合うに値すると思っていなくても、たくさんお金を持っていれば付き合う場合がある。

そこには通常の恋愛とちがってややズレがあると考えて良いだろう。

ここからは完全にぼくの仮説だが、ホストは成功した自分の姿を対象aに設定していて、そこに恋をしておりーーつまり〝究極の理想の自分像〟に恋をしておりーー究極の理想の女性像に恋をしているわけでは無いのだと思う。

だからホストにとって女性客は自分の理想ための手段でしかない。

ものすごい省略をすれば、ホストの脳内に女性なるものは存在しないのだ。

そこがホストが展開する疑似恋愛と、一般的に男性が行う恋愛との最大の違いだと思っている。

つまり整理すると、

・一般的な恋愛において男性が設定する対象a=究極の理想の女性像

・ホストの疑似恋愛においてホストが設定する対象a=究極の理想の自分像

である。

だから、実はホストは女性を見ていない。女性の向こうにカッコイイ自分を見ているのだ。どこまでも自己完結だ。

しかし、実際の恋愛は女性を見なければならない。

なぜなら実恋愛は自己完結ではなく、他者との価値観のすり合わせだからだ。

ぼくたちはホストを「特殊な人」として消費するが、実際には誰もが“ホスト的”に生きているのかもしれない。

SNSで「いいね」を集め、理想の自分像を演じ続ける。

そう考えると、ホストとは単なる水商売ではなく、資本主義的自己愛の極限形なのだ。

 

男の浮気を止めるにはどうしたら良いのか

いきなりの逆説ですが、ぼくは「この人は浮気をしたら傷つくだろう」という認識が「その人を裏切り、浮気をする最大の動機」になると思っています。

バレるような浮気をして恋人を傷つける人は、浮気という行為が相手の心を揺さぶることを心のどこかでわかっている。

傷つけて心を揺さぶれば、この人は自分にもっと興味を示してくれるかもしれないと感じるからです。

だから恋人同士は好きでいてもらうために、よく傷つけ合うのだと言えます。

相手の心を傷つける浮気をしてしまう人の多くは〈憎しみの恋〉をしてしまっています。

恋人という存在を使って、自分自身のコンプレックスを隠蔽しようとしたり、誰かを見返そうとしている。

だからいつしか恋人は愛したい対象ではなく、憎しみの対象になってしまうのです。

恋人といてはじめて自分を好きでいられるタイプの人は、自分のことを嫌いにならないために恋人を必死に支配、束縛しようとします。

それが〈憎しみの恋〉です。

しかし〈憎しみの恋〉をしておらず、相手を傷つけることが合理的に考えて無駄だという認識で生きている人であれば、いつでも浮気できる状況であっても、だいたい(たぶん)浮気しないでいてくれます。

だって、恋人がいるのですから余計なことをする必要は無いわけです。

たとえ万が一浮気したとしても、恋人にバレることはないでしょう。

浮気がバレるときは、相手の反応に違和感を感じるようになったときだと思っています。

それは恋人に向けていた〈憎しみ〉が、ちがうところに向いた瞬間です。

向けられていた〈憎しみ〉がふと消えた瞬間は、結構はっきりと伝わるはずです。

さて、ここで、多くの女の子たちは恋人に憎まれる接し方をしてしまっているというお話しをします。

ぼくたまに、この子はデートを楽しむことが好きなのでは無く、デートを通してこちらをどうにか丸め込もうとしているな、と感じる時があります。

あるいは「この子はセックスを楽しむことが好きなのでは無く、セックスを通してこちらをどうにか丸め込もうとしているな」と明確に感じる時があります。

たとえばデート中にやたらと男を落とすようなあざといムーブをして来たり、「どうよ?こんなにテクニシャンな私を欲しいでしょ?」という感じで「頑張ったフェラ」をしてくる子。そういう子は、こちらに魂胆がバレています。

むしろこちらとして安心できるのは、本当にこの子はフェラが好きで、フェラに集中しているなというのが伝わって来るパターンです。

そうなると、そんなにそういうことをするのが好きなのなら、ぼくなんかで良ければこれからも相手をし続けます。という気持ちになって来る。

男友だちと釣りに行くのと同じです、お前と喋りながら魚が釣れるまでの時間を過ごすのは楽しい。

だから、週末も釣り、どうよ?みたいな友情と同じです。

反対に女の子側からして見ても、男に好かれるために頑張ってセックスをするのはツラいでしょう。どんなに頑張ってプレイをしたところで、逃げる男は逃げます。

だからデートやセックスというのは根源的に、「それ自体が好きだからする」ということ以外に無いのです。

自分が心の底からしたいことを実現することを手伝ってくれる人が、恋人であり、パートナーということなのだと思います。

男にとって、すべてのデートはセックスへの壮大な前戯であり、セックスは文末の句読点「。」のようなものです。

そしてまた次の文が始まる。

女性にとっては衝撃的かもしれませんが、あくまでぼくは男はそういう生き物であると思っています。

ある意味、男はみんなヤリモクなのです。

紳士的でエレガントなヤリモクと、雑で人を傷つけるヤリモクがいるだけであって、根源的な目的意識に変わりはない。

爆弾発言や様々な反論をあえて覚悟して言えば、男の幅はそこからそこまでだと(結構本気で)思っています。

ぼくがそう言うのも、逆にそう思えればラクになれる側面があると思っているからです。

どこまでいっても人間は種の繁栄のために生まれて来た〝生物〟なのですから。

 

 

 

 

 

ホス狂い卒業マニュアル

ぼくは最近「ホス狂いには実家暮らしが多い」という問題について考えている。

かつて〝アダルトチルドレン〟という言葉が流行っていた。

親の前で過剰に良い子を演じることを強いられてきて、早い時期から悪い意味での〝大人〟にならなくてはならなかった少年少女たちのことを指す言葉だ。

ホストに通う女の子たちは、家庭の中で思っていることを言えない場合が多く、ホストに通っていることも当然親に話していない。

そこにはまさにアダルトチルドレン的な傾向が見られる。

ある意味、彼女たちはみんな良い子たちなのだ。

そうでなければ担当に何万円もするシャンパンをおろすために働き詰めになったりしない。

もちろんホストに通っていることを親に話すことが良いとはまったく思わない。そんなことをしたら怒られたり夜遊びを禁止されたりとろくなことは無いだろう。

家族だからといって本当のことをごとすべて話す必要はまったく無い。血縁だってしょせんはアカの他人だ。

問題なのは「家族に対して心のうちを秘密にしていることをどこか後ろめたく思っている」ということだ。

彼女たちはやや家族というものの幻想性を信じ過ぎている部分があると思う。だからこそ、どこか後ろめたくなってしまう。

ぼくは断言しよう。家族という「温かい幻想」を信じていなければホスクラにはハマらない。あるいは家族幻想を信じていることがホスクラにハマる必須条件である。

最も大きな家族は国家であり、皮肉にもホスクラでは担当を「王子」、お客様を「お姫」と呼ぶ。半分冗談だが、ホスクラは王政国家の名残、つまり戦前の家父長制をそのまま引っ張っているのだ。しかしこの理屈は半分本気だ。

つまりホスクラで行われていることは盛大な「家族ごっこ」なのだ。

ーーそろそろホス狂いを卒業したい。

営業後の配信やヘルプの最中、この手の相談を何度も受けたことがある。

その度によく考えたが、ぼくの結論としては本気でホス狂いを辞めるには、彼氏を作るのでも、結婚するのでもなく、まず第一に家族幻想を捨てることから始める必要があると思う。

そうでなければ、どんなルートを辿っても気づいたときにはまたホスクラのシャンデリアの下に戻って来るだろう。

また、たとえホスクラに行かなくなったとしても、スピリチュアルや宗教にハマったり、わけのわからないヒモ男にハマったり、バリエーションはさまざまあるだろうが、どのみち他に似たような貢ぎ先にお金を使いまくる日々がやって来るだろう。

ホスクラAに通うのを辞めたあともホスクラBに通う、あるいは複数店舗を同時進行で通う女の子は後を絶たない。

ホスクラで埋めていた〝心の空洞〟は、何か他のもので埋めなければならないのだ。

では、女の子たちが切実に埋めたがる〝心の空洞〟の正体とは一体、何なのか。

ぼくはそれを「親との関係で埋めきれなかった気持ちの差分」だと思っている。

それが大きければ大きいほど大人になったときのホス狂い化確率が上がると思う。

考えてみて欲しい。

「担当に認められるために健気に頑張るお姫の姿」と、「親に褒められるために健気に勉強する子どもの姿」の心は、極めて近いとは思わないだろうか。

ギリシア悲劇から着想を得たエディプス・コンプレックスという概念がある(※これは各自で調べてみて欲しい)が、ホストはある意味みんな父親の幻想を演じているのである。

ホス狂いを卒業するには、まずこの幻想の構造に自覚的になるしか無い。

しかし自覚的になったところで「分かっちゃいるけど辞められない」というのはあるだろう。

ただ一応「分かっちゃいる」のは重要だ。

そうすれば残すは「何に卒業を動機づけられるか」だ。

つまり最後の一押しである。

その前にそもそもホス狂いってそんなに急いで辞める必要があるものなのだろうか、という問いについて考えよう。

べつに狂うことが悪いことでは無いのだ。

ぼくだって学生時代はバンドに狂ってたし、アニメ好きはアニメに狂って、アイドル好きはアイドルに狂っている。そしてみんなそこそこのお金も使っている。アイドルの握手券や、ゲームだってシャンパンに負けず劣らずかなりの金額を使わなければ楽しめない。

ホス狂いを卒業したいという人は、その生活から逃げたいということであり、ホスクラに通うことでさまざまな実害を被っているということである。

「実家が石油王」みたいな子がホス狂いをしていても、べつに苦しくも何とも無いはずだ。

つまりこれは、信じている神様が要求してくるハードルが高過ぎて自分がそれについていけない、あるいは神様が優柔不断すぎて信じ甲斐が無くなってきた、といったような宗教の信者の修行が直面し考えるような問題と同じだ。

この場合は信仰先を変更し、より自分にとって脅威にならない無害な神様を信仰するしか無いと思う。

何かを信じながら救われたいのなら、もはやそのようなやり方でしか自分自身を救うことはできないだろう。

さて、アダルトチルドレンや家族幻想、宗教などいろいろ語ってきたが、これらの問題はどれもこれも〝人間が自らの拠り所として他者(人間でも神様でも)を必要としているから起きる問題〟である。

つまり人々が「相手に好かれることで自分の存在を感じる」ということの呪縛に思った以上に囚われているのである。

逆に考えると、他人に好かれるとか嫌われるとか関係無く、端的に自分の存在を感じることができれば、一切の問題は発生しなくなる。

ホス狂いを辞めたいのなら、自らを拠り所にして生きるしかない。

どんなに整形して綺麗になっても、どんなにお金を稼いでも、自らを拠り所にしていない人はずっと同じ轍を踏み続けるしかないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜぼくは夜の世界に潜入したのか

 

ぼくはこの夏にホストを始めた。

ちょうど風営法が改正されたタイミングで、いわゆる〝新風営法〟では女性客に高額を煽る原因になるとして、役職や売り上げの記載が禁止されることになり、それまでの広告等は使えないことになったという趣旨の説明が、運営陣によって店内で行われた。

ホストになったぼくの最初の仕事は、新人の雑用係としてその「古い看板」を物理的に取り外すことだった。

周囲からは「大学まで行ってなんでホストなんてやっているんだ」と小馬鹿にされることもあったが、しかしぼくはどうしても夜の世界の奥へと入っていきたかった。

そこにはひとつの世界の謎を解き明かしたいという、言葉に出来ない衝動のようなものがあった。

たしかに、わざわざ大学まで行ってナイトワークを始めるというのは一般的に考えたら異常行動なのかもしれない。

この国ではどこかしらナイトワークは「敗者が行き着く不幸な仕事」あるいは「ラクして稼いでいる」などの認識をされている気がする。

ちなみにぼくはそういう認識に関しては必ずしも間違っていないと思うし、「ナイトワークだって大変だ。みんな死に物狂いでがんばっている」などと、あえて同業を擁護する気もない。

実際には死に物狂いで頑張っている人も、いない人もいる。それに、頑張っているから正しいわけでも無いし、サボっているから間違っているわけでも無いと思う。

ぼくはただ「ナイトワークは世間から必ずしも温かい目で見られているわけではない」という端的な事実だけを見たい。ぼくはそういう人間だからだ。

近年、良くも悪くもホストクラブが世間からの注目を浴びている。

某俳優がホストを体験するネット番組が人気になったり、ホストに高額を貢ぐために少女が考えた「売春マニュアル」が問題視されるなど、ホスクラは時代の光と闇の中にあるようだ。

しかしぼくはホスクラが良い場所なのか?はたはまた悪い場所なのか?という議論にはあまり関心がない。

そんなの、人によっては良い場所と言えば良い場所だろうし、悪い場所と言えば悪い場所とも言えるだろう。どこまでいっても、そういう風にしか言えないと思うからだ。

話は飛躍するが、ぼくは戦後の日本は「人々が何を信じるべきか分からなくなった社会」だと思っている。

(とは言ってもこれはぼくのオリジナルの発想では無く、たとえば「大きな物語が失墜した」とか「国家という共同体が崩壊した」とか言い方は色々だが、この手の議論は哲学や社会学の分野をはじめとしたさまざまな場所で散々なされてきており〔代表的には東浩紀宮台真司など〕、ぼくは戦後思想の巨人たちの肩の上でその延長の議論をしているに過ぎない。)

ホスクラで働いていてつくづく「ここは失われた共同体を代替しているな」と思う。

戦後という時間の中で、かつて「人は何を信じて生きるべきか」を規定していた家、学校、会社、地域などの共同体が崩壊し、代わりにさまざまな擬似共同体が生まれてきた。

それは時にサリンをばら撒く新興宗教だったり、どこかのインターネットの掲示板だったり、秋葉原メイド喫茶だったりするのだが、ホスクラも例に漏れずそんな擬似共同体のバリエーションのひとつに過ぎないのだとぼくは考える。

つまりホスクラで女の子たちは「幸せな家族」を買っているのだ。

ホスクラに通う女の子たちの中には複雑な家庭環境を持っている子が多い。

しかし現実にはそれ以上に「お父さんもお母さんも優しくて、そこそこ幸せな家族生活だったはずなのにいまいち幸せだと思えない」「なんだかわからないけど家にいるのがツラい。かと言って一人暮らしする気も起きない」といった子が多く見られる気がする。(これはあくまでぼくの現場レベルの観察だが)

とにかく現実の家族は、とても理不尽なことが多く、「外の世界がどんなにつらくても、家庭だけは安心できる場所でいられる」という風になっていないのだ。

もちろん毎晩風俗で働き、ホスクラで毎月100万使っていても、それを娘は黙っているから親は「友だちと遊びに行っているのだろう」くらいにしか思っていないパターンがほとんどだ。

そのような女の子は「すべてを話せない実の親」と「すべてを話せるホスト」のどちらの関係性を維持したがるだろうか。

そこで後者に軍配が上がるのは明らかだろう。

彼女たちは身体を売って100万使ってでも心理的安全性を得たいのであり、それがこの国のリアルなのだ。

今やそれほどまでに心理的安全性は重要な語るべきテーマになっている。

世の中にはホスクラに通い詰める女の子たちを馬鹿にする人々がいる。

「私は絶対にホストにハマらない」と(ある種のプライドの高ぶりとして)豪語する子も何人も見てきた。

もちろん、喋ったこともない人を馬鹿にすることは一般論として良く無いとは思う。

しかし、ぼくはそのようにホス狂いを馬鹿にすることを悪いことだと言う気は無いし、「ホストにハマらない私」という自意識を持って生きることも悪いことだとは思わない。

ぼくが思っていることはただ、「でも、そういう風に言う君たちも、ホス狂いの彼女たちと同じような境遇に置かれたらきっと月100万使っているだろう」ということだけだ。

ぼくは「ホストがすごいから女の子たちがハマる」という理屈よりも、「女の子たちが〝幸せな家族〟を生きれていないからホストにハマる」という理屈の方が100倍納得ができる。

ある子がホストにハマっていないのは、他に幸せ=生きる意味を見つけられているからであり、あるいはそういう環境に恵まれているからだろう。

コンビニのバイトとして一生を終えようが総理大臣になろうが本来、人はどのように生きても構わないのであり、生きる目的に上も下も無いのだから。

ホス狂いを批判できる唯一のパターンがあり得るとすればそれは、「なんでホストなんかにハマってしまったんだろう」と周りを巻き込んで嘆き散らす子に対して言う「自分で選んだ道なのだから、うだうだ言うな」くらいであろう。

しかし、なぜ彼女たちはそこまでして幸せな家族=ホスクラを求め、生きようとするのか。

ぼく自身も女の子として生まれていてもホスクラにハマりはしなかったと思う。(友だちと月に数万円の範囲内で飲みに行くことはあったかもしれないが、高額ボトルを入れるまでにはならなかったと思う)

それはぼくが幸せな家族に恵まれているとか、何か幸せなコミュニティに恵まれているとか、そういうことでは無いと思う。

ぼくはそもそも家族が幸せなものだと信じていないし、学校も会社も地域もーーもっと言えば、社会というものは根源的にーー自分自身を幸せにしてくれるとは思っていないからだ。

お金を含めて、自分以外の何かが自分を幸せにするということを、ぼくは信じていない。

つまりぼくはホスクラが人を幸せにすると信じていない。

もっと言えば、人が幸せになるための条件としての「共同体」を信じていない。

それでも生きるためにホスクラや家族などの共同体を生きている。

それがぼくの生き方だ。

なぜぼくは夜の世界に潜入したのか。

その答えをひとことで表現すれば「この世にナイトワークが存在しなければならない理由を知りたかったから」だ。

(知りたいというのは端的な衝動であり、それがぼくの代替不能な個性だ。)

そして、そんなぼくがなぜホスクラで働くのかの答えは「人が生きていくためには何らかの共同体で働き、社会と関わっていかなければならないから」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第12回 ホスクラ神話解体Ⅰ

ぼくが感じるホストクラブ(以下、ホスクラ)の世間的イメージは「怖いけど気になる」だ。

とんでもない額の金が飛び交う夜の世界はなにが起こるか分からず怪しげだ。

多くの女性たちが「わたしはハマらない側の人間だ」とか「ハマってやるもんか」と思っている。

しかし、そんなことを言う人たちもそこに通う女性たちの思考や、ホストたちの接客技術を含めてある種のビジネス的、あるいは知的な興味は持っているような気がする。

昨今でもいわゆるカリスマ人気ホストであるローランドや軍神、社美緒などが出演しているネット動画を見て、一般人の中にもホスクラに対するある種の“神話”が支配していると思う。

しかしぼくはホスクラに対してはあえて「ただの高級クラブの一種に過ぎない」と言いたい。

ある意味、ホスクラで行われていることなど、大したことはないのだ。

ぼくはホスクラにおける最大のキーワードは「変性意識状態」だと思っている。

ホスクラという舞台装置は、人間を変性意識状態に持っていくために特化していると言っても過言では無い。

変性意識状態とは、通常意識状態とは異なり「シラフなら言えないことを言い、シラフならやれないことをやってしまう状態」だ。

普段はそんなに人に甘えない女性でも、ホスクラではイケメンに甘えるのが気持ちよくなったりする。

あるいはそれまで下ネタが苦手だったはずの女性でも、ホスクラではダーティーワードをポンポン言えてしまうようになる。

そんな状況をぼくは現場で何度も目にしている。

しかし、なぜそのような特異な意識状態に移行するのか。

1番大きいのは、変性意識状態の男たちがずっと話しかけてくることにより、意識が感染するということだろう。

接客のために、ホストたちも自らを変性意識状態に持っていっている。

自己防衛をして通常意識状態で澄ました顔をしていては、接客にならない。

ミュージシャンがライブで暴れるときのように、ホストたちは頑張ってちょっと変なヤツ、ちょっと危険な匂いがするヤツを演じていく。その時点で彼らの意識は変性意識に入っている。

女性たちがホストをおもしろいと感じるとき、それはべつに「語る視点がおもしろい」とか「発想が興味深い」とはちがう。(たまに、そういう場合もあるが)

そうではなく、基本的にはホストたちの「ただならなぬテンション」だとか「そのへんの男じゃできないような大胆な言葉、態度を取る」という部分におもしろさを感じているのが大きい。

つまり、まずホストたちが変性意識状態に入れているということが、女性たちが「ホスクラはおもしろい」「非日常的だ」と直感する理由だと思う。

そこにアルコールが加わり、爆音のBGMと、薄暗い店内、煌びやかなヘアメイク、衣装という舞台装置が拍車をかける。

そこに数時間いれば基本的には誰もがシラフとはちがう状態に入っていくし、そういう状態に入ったほうが「ここでは気持ちよくなれること」を体感的に知る。

「わたしはそういうノリは苦手」と言っていた女性も、せっかくその場にいるなら、斜に構えず楽しんだ方がいいなという気になってくる。し、実際にそうだ。

ぼくは普段こういう言い方をしないが、ホスクラで行われていることある意味セックスの前戯状態に近いと思う。

…というわけで、今回はホスクラ神話解体Ⅰということで、ホスクラと変性意識状態の関係性について述べた。

このように、脳の機能的メカニズムからホスクラ体験を説明するということを、巷ではあまりやっていないように思う。

ぼくはどんな文化も、ある意味では「たいしたことない仕組み」に還元できると思っている。

世の中にブラックボックスの神話があるのは、ぼくにとってあまり良いことではないのだ。

というわけでまたの次回。

 

 

 

 

第11回「ホストという謎文化について」

超がつくほどのお久しぶりです。

前回のブログが春でしたから、そこから夏を越え、それどころか夏も終わり、日も短くなってきました。

気づけばバイト先がセ◯ンイレ◯ンからホストクラブに変わり、あまりにも環境が変わり過ぎて「ブログが書けない」という適応障害を起こしていました。すいません。

しかし最近はこうしてブログを書けるくらいには新しい環境にも慣れてきたようです。

…というわけで今回は「ホストクラブという謎文化」です。

タイトルからしてぼくとホストの世界との距離感が出ている気がしますが、ぼくはホストを始めて3ヶ月経ってもなお、ホストクラブを謎の迷宮のように思っています。

歓楽街ですれ違う女子大生に「ホストクラブってどんなところなんですか?」と質問された時、ぼくは「イケメンとワイワイ酒を飲むところで…」「初回料金はこのくらいで…」などと答えますが、それは営業上のシステムの説明にはなっていても、なんらホストクラブというものの本質を説明しているわけではありません。

ちなみにぼくは、最初ホストクラブは会話をする場だと思っていましたが、今ではそれも半分合っていて半分合っていないような気がします。

原理的に考えてホストクラブの中でしかできない会話などはありません。わざわざ高い金を払って男たちと雑談をする場なら、こんなにお客さんが来てくれるはずもありません。

逆にいえば、ホストクラブに来てただの雑談をしているのはもったいないとすら言える。

そこで、ぼくは店の中でしかできないこととは一体何なのかを徹底的に考えてみた結果、結局のところホストクラブなるものは祝祭の舞台なのだと思いました。

もっといえば「おおげさなことが許される空間」ということです。

たとえばメイク、衣装、喋り方をかなり派手にキザッぽくしても、あの重低音の音楽が流れるホストクラブの巨大なシャンデリアの下では、ある種、自然なものとして許されてしまうのです。

ぼくだって最初はしっかりスーツを着ていましたが、どんどん胸元をはだけさせ、最近は4つくらいボタンを開けている状態です。乳首が見えてもおかしくないというか、見えてるかもしれません。

加えてズボンもビリビリで穴あきまくりのダメージジーンズばっかり履くようになりましたし、首には十字架のチョーカーをつけ始めて中二病全開です。

歌舞伎町なんかでは、上裸にジャケットを羽織っているだけのホストとかいます。

そのへんの一般男性がそんな格好をしていたら結構ヤバそうですが、ホストクラブの中では「役作り」の一環として認識されるのです。

キャバクラもいってみれば同じです。あんなに胸とか太ももを出していたらヤバいですが、店の中ならそれがふつうになる。

しゃべり方ひとつとっても、そのへんで友だちとごはんを食べる時よりも過剰なところがあると思います。

たとえば「それってつまるところつまるところ、〜て感じっしょ〜⤴︎」「ゴリゴリでいっちゃう〜?」のように、会話にある種の過剰装飾をすることが許され、そしてそれが「面白い」となる世界なのです。

ホストクラブとはある意味では人生にとってとても余計なことをする場所です。あえていえばホストなんて、絶対に無駄です。しかし無駄だからこそ、面白いという矛盾。それがホストクラブの本質的なところであり、面白い部分だと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第10回「片想い」

桜は散り出逢いの季節です。

最近、僕の周りでは空前の恋愛ブームが到来しています。

一方の僕は読書と映画鑑賞に夢中で恋愛はご無沙汰の時期です。(なにせ隠居中ですから。)みんなホットなのに僕だけクールダウンしている状況。

しかし他人の恋愛相談に乗ることは、自分の考えも整理されてくるのが良いところです。

そんなことをやっていたら思いの外、恋愛についての考え方のメモが溜まってきたのでブログに書き出そうと思いました。

ふと気づいたのですが、僕はこれまで片想いの相談ばかりされてきました。

「〇〇のことが好きなんだけど、どうしたら良いかな?」ってやつです。

なぜ片想いの相談ばかりなのか?と、考えましたがそれもそのはず。

恋される側よりも恋する側の方がグジュグジュと色んな気持ちを抱えて悩み苦しむのは当然の理です。

老若男女、恋する側は大概みんなグジュグジュしています。

「好きと言いたいけど怖い」

「私じゃ彼に釣り合わないに決まってる」

「僕だけのあの子でいて欲しい」

「私以外の女の子に笑顔を向けているところなんて見たくない」

などなど。

とにかく好きな人を想いながら葛藤するわけです。

グジュグジュ。

それがひとつの片想いの本質です。

恋って綺麗なものなんかじゃありません。

ところで僕が「〇〇のことが好きなんだけど、どうしたら良いかな?」と質問された時は、「自然体の君でいればいいんじゃないかな」と答えます。

僕も過去の恋愛で色々苦しいことだったり悲しいことだったり、艱難辛苦を乗り越えて来て思いましたが、自然体を壊してまでする恋愛は不健康です。

それは別に相手を前に動揺するな!強がれ!いつものお前を保て!ということではなく、動揺してしまったらそれを素直に表現すれば良いってことです。

好きと言いたければ言えば良いし、嫉妬したなら嫉妬したと言えば良い。

それが自然体です。

喜怒哀楽の自然な反応を大事にすれば良いと思います。

それを殺すとどんどん不自然になり、不健康になっていく。

不健康になれば相手を憎むことにも繋がります。それかもしくは歪んだ愛になってしまう。

ところが、多くの人は自然体でいるのは負けだと思っているようです。

たとえば、嫉妬しているところを相手に見せないのが“強い”とか。

おそらく巷の「恋の駆け引きマニュアル」みたいなものに書いてあるのでしょう。

でも僕は「好きになったら負け」みたいな考え方は不自然だと思います。

なんであれ、人を好きになることは奇跡です。

強がることは、その奇跡に対して失礼なことをしていると言えます。

自分の気持ちを隠して駆け引きをして相手をコントロールするよりも、いっそ自然な感情を表現していった方が、たとえ結果がどう転んでも「気持ちを出し切れた感」に満足できるんじゃないかと思います。

まあ、ひとりの人に恋をするのはロマンチックで良いことですが、世の中に男も女も五万といるわけですから、ダメなら次へスムーズに移れた方が良いと思います。

可能な限り、怨恨なく。

立つ鳥跡を濁さず、です。

べつに僕はドライに恋愛しろ、と言いたい訳ではありません。

喜怒哀楽をしっかり出せば、みっともなくても結果的に大人な恋愛ができるんじゃないかと思います。

恋愛って自己を解放するイベントですから、みっともなくていいのです。

みっともないことを避けようとするとむしろ恋愛を楽しめなくなります。

冷静を気取って本音を隠している人と、みっともなくても本音を出す人、どっちが大人かと言えば一目瞭然だと思います。

まあ、分かる人に分かればいいです。

分からない人には永久に分からないと思います。

それでは今、恋をしている皆さんが、いつか幸せになれる日を切に願って。

んじゃまた⭐︎